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カテゴリ:哲学・生き方( 50 )

不完全さが心地良い♪

人間は不完全な生き物。

不完全さが個性であり、弱さであり、可愛らしさでもある。

不完全ゆえに、ともに寄り添い生きている。

互いの足りないところを認め合い、補い合い、時には許し合い、愛おしみながら、生きている。

そういう呼吸の人と、共にいるのは、心地良い。

不完全さを、笑いあえるようなら最高のパートナーなんだろう。
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by kaori40712007 | 2016-04-12 08:54 | 哲学・生き方 | Comments(0)

根っこ♪


悲惨な出来事が起こったら、それを嵐と例えよう。

嵐は、容赦なくすべてのものを破壊するが、地に奥深く、しっかり根をはる大樹は、それでも倒れずしっかり天に向かって立っているものだ。

信頼と情が、私にとっては大樹、揺るぎないもの。

窮地に立った時、半分背負ってあげると言ってくれた親友は、半分どころか多くを引き受け、決して手を離さず、どん底から引き上げてくれた。這い上がれたのは、深い理解と情の為せる技だった。

自分の力でしっかり立って前進できているのは大樹のおかげ。
圧倒的な情はどんな困難も打ちくだくのだと知った。友の生き様から、生きる勇気をもらう。

調子よく行っているときに、なんとなく違和感があったけれども、縁を切れなかったりした雑多なものは、全て洗い流され清々しい思いだ。

嵐には遭いたくないけど、あったからこそよく見えたものが沢山ある。

根っこを張ってないものはもう二度と手にすまい。











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by kaori40712007 | 2016-02-29 08:21 | 哲学・生き方 | Comments(0)

満ち足りる♪


愛するだけでは独りよがり、愛されるだけでは退屈、愛させてこそ能動的で満ち足りる。恵みの雨のような、しっとりとした女でいたい。





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by kaori40712007 | 2016-02-22 12:27 | 哲学・生き方 | Comments(0)

満ち足りると言うこと♪

娘たちに知っていて欲しい。
たくさんの人から愛されようなどと、そんな不確かなものにすがって生きるよりも、目の前にいる一人の人を深く理解し、大きく愛する方が、ずっとずっと満ち足りて、いつも笑顔でいられると言うことを。その笑顔に人々は癒され、救われ、気がつけば、周りの笑顔に包まれ、楽しく活きられるということを!

愛のスパイラルは確かにあると、半世紀生きて確信する。

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(長島温泉 湯あみの島)




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by kaori40712007 | 2015-04-21 07:35 | 哲学・生き方 | Comments(4)

徳の階級♪

私は、家族と一緒にいる時、一番楽で愉快だ。家族は、生家と違って、自分で作り上げるものだから、二十年経って、やっと安心し、楽しく過ごせる我が家となったと実感している。

親友もまた同じ。荒波に溺れそうな家庭に育ち、怖くて苦しくて、たまらなかった思春期に、黙って笑顔でいつも寄り沿ってくれた親友は、今も一番近い存在。誰よりも熱い恋をし、傷つくのも恐れず無償の愛を貫いた人。自分のキャリアを大切にしている人。親友は家族と一緒。自分の意思で作った家族は、縁あって一緒にいるわけだが、いつも感謝するのは、彼らに徳があると言うこと。人一倍情熱家だが、感情のコントロールに非常に長けており、自分に厳しく他者に優しい。私なんかより、何度も輪廻転生して、修行をしたかのよう。気分屋の生家で苦しんだ私は、その苦労のおかげで、自由に生きられる婚家に嫁げたのかな。嫁ぎ先の家族の方が、数段優しく包容力がある。

友人知人も、全て同じタイプの元気で、暖かく、軽やかな人々。纏わり付かれるのが、何より苦手なので、非常に楽だ。理解と尊敬があれば、人間関係はうまく行く、必ずうまく行くと、半世紀近く生きて確信している。

人を利用したり、マイナス感情のゴミ捨て場にする人のお顔の相は皆同じ。近寄らないに限る。ニコニコ笑っていても見抜けるよ。まず、長年そうやって生きている人は、いろんな面で、成功してないしね。欲求不満の権化だから、ドロドロオーラで迫ってくるでしょ。だから、全速力で逃げる(笑)。

宇宙の神秘の中では、私たちって、とてもちっぽけなもの。だからいつも笑って仲良くしていましょうね!ってのが、基本にある人との時間は、とても豊かだ。





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by kaori40712007 | 2014-09-10 22:07 | 哲学・生き方 | Comments(0)

聖書片手に剣道合宿♪

「家族揃って元気で、祖父母にも可愛がられ、愛犬もおり、親友もいて、良い大学に入学し、学問楽しくて、体育会剣道部の先輩同輩にも恵まれ、住む所も、食べる物も、着る物も、何不自由ないのに、心に渇いた所があって、満たされないのよ、お母さん。」

と、おぼこい大学一年生の娘は、母である私にこう言う。

「それはさあ、身も心も焦がすような大恋愛をまだしてないからよ~。」と、母は即答する。

「はあ~?それ母親の答えか~?」と、あきれ顔の娘。

「そう!何の損得勘定も無く唯惚れちゃって、相手もこちらに惚れていて、互いに熱病のようになる状態ね。それはもうアドレナリン大噴出で、四六時中互いのことでいっぱいになったりして、嫉妬や焦燥や不安に苛まれ、自分の底に眠っていた感情が一気に噴き出るのよね。否が応でも雌としての自己の能力や魅力の有無を思い知ることにもなるしね。言い訳も、説明も不要な真剣勝負の世界よ。不条理の極みで、不確かで、何の将来の保証もない、自分対相手の野生動物のような衝動や直感だけの関係に、身を置く事を経験すると、人は一皮も二皮もむけて羽が生えるからね、飛べるんだよ。そうすると、乾いているとか、なんだとかという感情も湧かなくなる。潤うのよ~。色々考えているようじゃ駄目ね。綺麗事ではなくてね、汚物でも何でも、丸ごとその人を飲みこんであげたいと思うくらい好きな人がいると潤うよ~。飛び込んで行く勇気があればその世界は手にできる。がんばれ~♪」

というのは、少し冗談であって、ああ、この子には「宗教」が欠落しているからかもな、と本心は思う。

キリスト教でも仏教でもイスラム教でもいいから、何か一つ経典を体系的に学ぶと、「真理」がきちっと把握できる力がつくと思っている。そうすると人が人としてどうすれば清々しい気持ちで自由に生きられるかという術を身につけられる。

巷に溢れる、自己啓発本やノウハウ本は、サプリメント程度で、読後一瞬気持ちが軽くなったような気がするだけで、人格の核形成には、あまり効果が無いと思っている。経典は髄を培う人格の栄養素だ。不安や渇きを一掃する力がある。

自らの拙い経験に基づいてしか言えないのだが、10歳の頃から教会学校に通い、中高一貫教育で、毎朝礼拝を受け、家庭を持ってからも、子どもの通う保育園の牧師である園長先生が、わが家を会場に聖書研究会を開催してくださったおかげで、聖書を精読したことが今の幸せに繋がっていると信じて疑わない。

人生の転機や一大事に、どうすればよいか?という答えは、全て聖書に在った様に思う。その時々の判断は、今振り返っても正しかったし迷いやブレが無かったのは聖書のお陰だと考えている。

「汝の隣人を愛せよ。(マタイによる福音書 22章39節)」

この一言に、聖書の全てが集約されていると私は勝手に思っている。

誰それが好きとか、なぜ好きとか、どうのこうのとか条件付きではなく、互いの運命によって手繰り寄せられ出逢った人を、好きであろうと嫌いであろうと愛せよ、というこの教えは、人々を幸せにするための「大きな導き」である。

「我が!我が!」と思い、頑なに拘っている間は人は決して幸せにはなれない。

「まずは今、となりに居る人を愛する」為には、いつも笑顔でいる事であろうし、おかれている状態に感謝することであると思っている。一番身近にいる家族を大切にできない人は、その段階で幸せへの切符を手放している。聖書は、そういう人も神は赦し救ってくれると言っているが、救ってもらうだけではなく、もっと自発的に幸せをゲットしようと思うと、隣人を愛し笑顔で過ごし感謝の気持ちを忘れない事だろう。

「だからもっと愛犬の世話をし、家族に優しくしないとねえ~。」というと、娘は、拙い母の説明だけではピンとこなかったらしく、さりとてこのままスル―するのも中途半端だなと思ったのか、聖書を旧約聖書の創世記から読み始めた。読み始めたら止まらなくなったらしく、GW期間中の剣道合宿に、山ほどもある荷物に聖書も突っ込んで出かけていった。

その後ろ姿を見送りながら、娘の心の渇きの原因が、母親からの愛情不足だったらどうしよう、と一抹の不安に襲われた。私も聖書をもう一度読み直さないと・・・(笑)。
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by kaori40712007 | 2014-05-05 09:58 | 哲学・生き方 | Comments(6)

あたしたち原始人♪

大好きなフォトグラファーブログの、お花のマクロのお写真が、まるで宇宙のようで、吸い込まれてしまった。・・・もう、美しさにメロメロ。。。

彼女はハートのとても澄んだお人で、お写真は彼女ご自身を写しとってて、とても惹かれている。永遠の乙女なのだ。

お写真に添えられたコラムは、しっとり優しく包容力ある大人の魅力に溢れており、時にはユーモアたっぷりの抱腹絶倒もので、そのギャップがたまらなくって、多くのファンをお持ちの彼女。ご自身の事を、このご時世に「花粉症に縁のない原始人」だと仰る。そうか、文明人は花粉症になるのだな。

何を隠そう、わたくしも花粉症とは無縁の「原始人」。

ココだけの話ですけどね。。。。わたし、パンツはいてないんです(笑)。

そのむかし、人類学者、栗本 慎一郎の「パンツをはいたサル」という本を読んで「下着はつけまい。」と思って以来、必要最低限だけつけることとし、ほとんど裸族。気の合う仲間は、けっこうお家では何も身につけないという人多く、意外であったが嬉しくもあり(笑)。

法律に触れたくないから外出時は服を纏いますが、ほんまは服など要らないと思っています。みんな裸でいれば、もっと互いにそれぞれのアイデンティティを理解しあえ、開放的に暮らせるのでは思っています。
着る以上は、中途半端が嫌でお洒落しますが、それは自己表現の一つなので、カンバスに絵を描く様なものです。
ささやかな抵抗として、いつも素足です。真冬でも裸足でジム内を歩いていて、皆さんに「寒そ~っ。」と言われますが、寒くないんです。どこでも素足で歩くことによって、足裏の神経がいろんなものを察知するので、足先までいつもポカポカ暖かい。

装飾品はつけませんが、いつも綺麗な髪でいたいので、イケメンジェントルマンに草木染めしていただいてます。現代人は短時間に毛染めをするようですが、わたしはゆっくりゆっくり染めます。時間に追われず、時計もせずにのんびりしてます。緑地帯沿いに住んで、いつも遠くを見ています。庭に降り立つ鳥を時には食ってやろうかとさえ思います。ご近所のアメリカ人は、枯れ枝と石ころとゴムで作った自作のパチンコで、庭のキジをしとめて絞めてBBQしてました。イイ感じです。彼も花粉症知らずの原始人仲間です。

食べ物はほとんど皮ごと食べます。テーブルマナー上、文明人の振りをして、気取って箸やナイフ&フォークを使用しますが、基本的には、リンゴがぶり、トマトがぶり、魚も頭から尾までをがぶりです。何でもかんでも「がぶり」が好きです。皮を歯が突き刺し、実が舌にさわる瞬間に沢山のパワーをもらえるような気がします。野糞、野宿大好きです。なんでも食べられ、どこででも生理現象を処理できます。

嗅覚が鋭いため、こちらに敵意を向けている物あれば、即座に嗅ぎつけ退散します。(闘わないところが情けないけど、すぐ逃げます・笑。)

そして、何より、イイ男を観るとアンテナがピーンと立ちます。あたしほんとに原始人だと思います(笑)。






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by kaori40712007 | 2014-03-20 23:56 | 哲学・生き方 | Comments(10)

別れ♪



いろんな人と多くの「別れ」を経験して来たけれども、「別れ」は「終わり」では決してないと思う。

深く関わり合った仲は、別れてから何年もして、形を変え自分の中で「いい香り」を放つ事がある。

深く熱く付き合えば、互いに根を下ろすことになるので、思いがけない時に再び華を咲かせる事もある。
真剣に向き合った仲は、一生ものなのだ。

「死」があるからこそ、限りある「生」がきらりと光るものであるように、「別れ」があるからこそ「刹那」に愛し合うことが出来るのだ。時に、「別れ」ることによって、どうにも埋めようのない心の隙間が埋まることだってある。

「別れ」を恐れて、言いたい事を言わずにいたり、自分を取り繕っていると、結局きちんと相手に自分を伝えきれずに終わるので、そういう仲は「別れ」とともに「終わる」のだ。「嘘偽りなく己と相手と向き合う」という生き方を私は好きだ。

感情に溺れて相手をきちんと受け止め見つめきれない時も、不完全燃焼の、カスカスの付き合いとなる。

独りよがりの人付き合いは、人と触れ合っているのではなく、自分を慰めているだけのもので、空しく手応えが無いもの。満たされないし癒されない。

傷ついてもイイから、大好きな人の懐に思い切って飛び込む事は、生きているからできること。

魂を込めて交わした情には命がある。

人は、人の中に生きることが確かに出来るのだから。
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by kaori40712007 | 2014-03-07 07:10 | 哲学・生き方 | Comments(8)

「口が堅いこと」、それブランドよ♪

娘たちが時々嬉しそうに言う。

「友達から大事な話を打ち明けられた。」と。

母もそれを聞いて嬉しく思う。

「貴女にしか話したことが無い・・・。」と、大切な話を人から開かされると、自分が大事にしてきたことがその人にちゃんと分かっていると思えるのでとても嬉しく思う。

それは「口が堅い」ということ。

とても大切なことで、長年友人関係を築いている人たちもこのことに関しては全く同じ。
同じというか、口の堅い友人に恵まれ、未熟な私が、教育してもらったという方が正しいか。

どんなに親しくなっても、自分以外の人の詳細をべらべらしゃべらないというのは、ごく当然のことなのだが、世間ではそうでない事も多く、人々は簡単に自分の信頼や人格を貶める。ブランド物の鞄や洋服に身を包んでも、噂話に花を咲かせているようなら人間の質はバッタモンである。

「ココだけの話!」と、他人の話をする人には、その先を聞かないようにしている。
「誰にもしゃべらないでね。」と、こちらに負担を強いられるのも心外だ。私という人間が、口外してはならない内容を、人に明かすほど軽々しい人間でないことを見抜けもせずに、大切な話を打ち明けないでほしい。そのようなタイプの人の内緒話など興味もないからね(笑)。

気難しいと去っていく人がいたら、身辺さっぱりしていいやと思うようにしている。

情厚く、懐深く、口の堅い信頼のおける人とだけでこの先楽しく歩いて行きたいし、娘たちにもそうであって欲しい。
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by kaori40712007 | 2014-02-27 07:26 | 哲学・生き方 | Comments(4)

「謝罪」の意味♪ ケーキ屋のナッツ混入事件で思い出した昔話。

次女は、幼いころから男の子とよく遊ぶため、遊びが高じて骨折したり、前歯が折れたり、階段から突き落とされ頭が腫れたり、水槽に落とされたり、突然後ろから蹴倒され顔がずるむけになったりしたことがある。

彼女は決して相手に怒ったりせず、痛いから泣くだけで、痛みが引けばケロッとしている。
だからまた、懲りずに激しい遊びに参戦(笑)し、怪我をする。懲りないお陰で友達が減りもしないし、激しい外遊びを覚えて行き、今では武道の達人になっているわけで、男の子たちには感謝しなくてはならない。

ただ、人に怪我をさせた時の男の子のお母さんたちにとても気になることがある。
故意ではないにしても、原因を自らが招いたのであれば世の中では「謝罪」というのをしないといけないのだけど、今までの加害者で本人が母親と共に謝罪に来たのは一度だけである。

このお母さんは、とても美しい方だった。ご子息に、次女に直接「痛い思いをさせてごめんね。」と、謝罪させ、次女の怪我が完治したら、再びご子息と訪問され、今度は美味しいケーキと花束を持って、「全快祝い」の言葉を笑顔でくださった。治療費についても、具体的にお話しをキチンとされ、なんと清々しい事だろうとこちらも心が綻んだ。このご子息、その後文武両道で、ぐんぐん才能を伸ばされ、すっかり素敵な紳士にご成長されさすがだなと思い、この先のご活躍も楽しみだ。

これとは対極に、怪我をさせたのを知っていても、全く放ったらかしの親御さんもおられるのだ。

頭を狙って石を投げつけたり、階段の最上階から背中を押すような危険な行為に及ぶ子どもの親ほど謝りに来ない。普段からいいことと悪い子との区別がつけてないから、謝っていたらきりが無いのだろう。別にいいけどね・・・関わりたくないから。でも、その後の息子さん達の成長過程が、あまりいい感じではないのが気になる。人様に挨拶もしないし、不貞腐れている・・・。親が有事の際に、自分のことで、いい事悪いことに関わらず真剣でないというのは、子どもにとってはとても寂しい事。実は、真剣に怒ってくれる人を欲しているかもしれないのに・・・。

その他は、千円そこそこの菓子折りを持ってお母様が一度だけお越しになるだけで、予後のお尋ねも無しだ。「とりあえずことを収めたい」といった感じがありありとある。「アンタんちの子がドン臭いからよ。」と言わんばかりの人までいる。治療費についても「保険きくよね。」と仰るが、一定額以下はこちらの負担だし、通院にだって、時間と費用がかかるのよ。それよりなにより、当の加害者の息子が来ていないから話にならない。

すくなくとも、謝罪に来られた方には、「愉しく遊んでの結果ですからお気になさらないで♪」と、笑顔で対応するようにしているが、それをいいことに、ひどい場合は、ホッとして、「ああ、怪我させたのが貴女の子どもで良かった。相手が悪かったら大変!」と。口に出す輩までいる。こちらは笑顔で対応しているが、治癒に時間がかかる場合はその間、大変不自由を強いられるし、痛い想いも哀しい想いもしているのだ。そういうことに思いが及ばない育児ってどうなんだろう???

息子が不始末を仕出かしたら、まずキチンと子どもに理由を聞き、故意ではないにせよ「謝罪」する事を教え、二度と人様を怪我させないように教育する絶好のチャンスなのに、「被害者に怒られたどうしよう!?」「私の育児がいけなかったのか?恥ずかしい・・・。」という気持ちが先に立って、教育の機会を逸している。

こういう教育を受けて育った子はまた加害者になる。同じ怪我を他の子にさせてしまうというケースを繰り返してみて来た。

だから今回のケーキ屋ナッツ混入事件は、「消費者センター」と「保健所」に通報することにしたのだ。命にかかわる事をもみ消されては困るから。

何事もそうだけど、「謝罪」も、自我が先にたっている場合には何の意味も成さない。

被害者に再び哀しい思いをさせるだけで、二度も人を傷つけるのってどうかと思うよ。
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by kaori40712007 | 2014-02-12 18:00 | 哲学・生き方 | Comments(0)
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楽しい日々♪


by マダムSadayacco
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